万葉集特集です。

 

前回、天智天皇の娘でありながら、天智天皇の実弟である天武天皇に嫁いだ大田皇女&鸕野讃良皇女(持統天皇)姉妹のことについてちらっと触れました。

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今回はその子供達である皇子・皇女たちにスポットを当ててみたいと思います。

 

実の姉妹である大田皇女&鸕野讃良皇女は、ともに天武天皇との間に子供を授かっています。天武天皇と太田皇女の間に生まれたのは大津皇子大伯皇女。天武天皇と鸕野讃良皇女(持統天皇)の間に生まれたのが草壁皇子

 

大海人皇子(天武天皇)が天皇に即位する前に大田皇女が亡くなったため、鸕野讃良皇女(持統天皇)が皇后となり、その影響で勢力を増した草壁皇子が皇太子として即位しました。

 

石川郎女をめぐる三角関係

草壁皇子には石川郎女という想い人がいましたが、石川郎女は大津皇子と恋仲となり、万葉集にはふたりが交わした相聞歌が収録されています。

草壁皇子が石川郎女に送った和歌

大名児を彼方をちかた野辺に苅る草の束のあひだも吾忘れめや
大名児が遠くの野辺で刈る草のほんの束の間もわたしは君の事を忘れることはない。

大津皇子と石川郎女が交わした相聞歌

あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに 大津皇子
あしひきの山の雫がそこらにある中で君を待っていて、ずいぶんと濡れてしまった山の雫に。

吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを 石川郎女
私を待っていて濡れてしまったというあしひきの山の雫に、私もなれたなら良かったのに。

 

皇太子である異母兄を裏切ることとなった大津皇子ですが、なかなか肝が据わっている一面もあり、下記のような強気な歌も残していたりします。

大船の津守の占に告らむとはまさしく知りて我が二人寝し 大津皇子
大船の津守の占いに(二人の仲が)露見されるだろうことは承知の上で二人で寝たのさ。

 

とはいえ、裏切りの相手は皇太子。何事もなく平穏に終わるというわけにはいきません。石川郎女との仲は、天智天皇と忍海色夫古娘の間に生まれた川島皇子に密告により明るみとなり、謀反の疑いをかけられた大津皇子は自害してしまうのです。

大津皇子が詠んだ辞世の歌

もづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子
磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られずに雲隠れしていくのだろうか。

金烏臨西舎 金烏 西舎に臨み
鼓声催短命 鼓声 短命を催す
泉路賓主無 泉路 賓主無し
此夕離家向 この夕 誰が家にか向ふ

 

天智天皇と蘇我常陸娘の娘であり、大津皇子の正妃・山辺皇女は、夫の謀反によって殉死してしまいます。その時の様子は、日本書紀に「被髪徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷」(髪を振り乱しながら裸足で走り殉死した、それを見た者は皆嘆き悲しんだ)と書き記されています。

 

大津皇子の姉・大伯皇女の苦悩

大津皇子の実姉・大伯皇女は「斎宮」として伊勢にいました。大津皇子は、死の直前に姉のいる伊勢神宮へと下向しています。この行為も、謀反と捉えられても仕方ない危険な行為でした。大伯皇女はそんな弟の身を常に案じていましたが、どうか無事であってほしいという切実な想いは通じることはありませんでした。

伊勢まで下向してきた大津皇子を見送ったときに詠まれた和歌。

わが背子を大和に遣るとさ夜深けて暁(あかとき)露にわが立ち濡れし 大伯皇女
弟を大和に見送ったのは夜も更けたころで、それから暁が来るまでたち続けていたので露に濡れてしまいました。

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ 大伯皇女
二人で行っても超えるのは難しい秋山なのに、いかにして君は独りで超えるつもりなのだろうか。

斎宮として伊勢にいた大伯皇女が退下し、帰京したときに詠まれた和歌

神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに 大伯皇女
神風の吹く伊勢の国にいればよかったものを、なぜ帰ってきてしまったのだろうか。愛しい君ももういないのに。 

見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに 大伯皇女
姿を見たいと思う君はもういないのに、何をしに来てしまったのだろうか。馬が疲れるだけなのに。

大津皇子が二上山に移葬されたときに詠まれた和歌

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む 大伯皇女
現世の人間であるわたしは、明日よりあの二上山を弟だと思って眺めるほかありません。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに 大伯皇女
磯辺に生えている馬酔木を手折ってみたところで、見せたいと思う君に会ったとは誰も言ってくれません。

 

持統天皇の疑惑

春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 持統天皇
春が過ぎて夏が来たようです。白妙の衣が干されているあの天の香具山に。

百人一首にもあるこの和歌が有名な持統天皇。

 

大津皇子が謀反の疑いをかけられた背景には、草壁皇子の母親である持統天皇が裏で手を引いていたのではないかという説があります。持統天皇にとってみれば、大津皇子もまたかわいい甥っ子のはずなのですが、聡明で人望もあった大津皇子の存在は我が子の地位を脅かす脅威でもあったのです。

 

しかし、大津皇子が亡くなってからも、大津皇子処刑に対する反感と年齢的な問題から、天皇の地位がすぐに草壁皇子へと譲位されることはありませんでした。そうこうしているうちに草壁皇子は病に倒れ、天皇に即位することなくこの世を去ってしまうのです。

 

草壁皇子への哀悼

万葉集といえば思い浮かぶあの柿本朝臣人麻呂は、天皇に即位することなく亡くなった草壁皇子を偲んで次のような挽歌を残しています。

草壁皇子を偲んで柿本朝臣人麻呂が詠んだ挽歌

(長歌)

天地(あめつち)の 初めの時の 久かたの天の河原に 八百万(やほよろず) 千万(ちよろづ)神の 神(かむ)集(つど)い 集い座(いま)して 神(かむ)はかり はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命 天(あめ)をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地(あめつち)の 寄りあひの極み 知らしめす 神の尊(みこと)を 天(あま)雲(くも)の八重かき分けて 神下し いませ奉(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神(かむ)上(あ)がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の 下 知らしめしせば 春(はる)花(はな)の 貴(とふと)くあらむと 望月(もちづき)の たたはしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思いたのみて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱(みやはしら) 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)とはさず 日月の 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方(ゆくえ)知らずも

(反歌)

ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも 柿本朝臣人麻呂
空を見るように仰ぎ見た皇子の御門が荒れてしまうのは何とも惜しいことだ。

茜さす日は照らせれど烏玉の夜渡る月の隠らく惜しも
日(持統天皇)は照らしてくれるけど、暗い夜を渡っていく月(草壁皇子)が隠れてしまったことが惜しまれる。

 

持統天皇の後を継ぎ天皇に即位したのは、天智天皇と姪娘の皇女であり、草壁皇子の妃である阿陪皇女(天明天皇)です。