玉に貫く楝(あふち)を宅に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも 大伴書持
薬玉にする楝(あふち)を庭に植えたならば、ほととぎすはこの地を離れることもなくやって来るのだろうか

 

楝(あふち)とは栴檀(センダン)のこと。山草とかどちらかというと素朴で地味な花が好きな母。その母が好きだといっていた花のうちのひとつ。その影響で私も大好きになりました。こちらの地方ではちょうど満開の時期。新緑の木々に囲まれながら薄紫がかっているところがあり、栴檀が咲いているのがわかります

 

背の高い木だからそれまであまり感じたことなかったけど、空気が湿っているせいか、今日たまたま近くに寄ってみたらふわっと甘い香りが漂ってきました。でも諺の「栴檀は双葉より芳し」の栴檀とは別物。この場合の「栴檀」は白檀の中国読みであり、つまりは白檀のことを指しています。

 

「玉に貫く」というのは、杜鵑花さつきたちばな菖蒲あやめよもぎあふちといった草花を用い、それらを玉のように緒通して薬玉にした端午の節句の習しから来ているもの。なぜ霍公鳥なのかといえば、これらの花の開花を告げるとされていることから。とはいえ、栴檀は咲いていて鶯とか他の野鳥の声は聞こえるけど、霍公鳥の鳴き声はまだこちらには聞こえてきません。鳴かぬなら待とうホトトギス。

 

 

橘は常花(とこはな)にもがほととぎす棲(す)むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
橘が年中咲く花であったなら、ホトトギスはそこに棲みついて鳴き声を聞かない日はないだろうに。

 

当時、大伴書持の兄・大伴家持は、内舎人として恭仁京に滞在していました。その兄へ↑の和歌とともに送ったとされています。↓は、兄・家持の返歌。

 

あしひきの山辺(やまへ)に居(を)ればほととぎす木の間立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし
山の麓(ふもと)で暮らしていると、ほととぎすが木々のあいだをくぐって鳴いているのを聞かぬ日はありません。

ほととぎす何(なに)の心ぞ橘の玉貫(ぬ)く月し来鳴き響(とよ)むる
ほととぎすは何を思うのか、橘を薬玉にする頃にばかりやって来て鳴くのです。

ほととぎす楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで
ほととぎすが楝の枝にまで行って止まれば花はさぞかし散ることでしょう、玉のように

 

 

このひととなり、花草花樹を好愛でて、多く寝院の庭に植ゑたり。故に「花薫へる庭」といふ。

これは亡き弟のために、兄・家持が詠んだ長歌の一部。「花薫へる庭」と言われるぐらい花草花樹を植えて愛でていた書持。同じく私も花が好きなので、なんだか勝手に親近感が湧きます。長歌に添えられた反歌(短歌)が↓

 

ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも
達者でと言っていたのに白雲となって立ちなびいたと聞かされるとはなんて悲しいことよ

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを
こうなるとかねてから知っていたなら、越の海でも荒磯の波でも見せてやったものを