ここ東海地方でも梅雨明しましたが、その前日のこと。ふと作業の手をふと休めたとたん、どこからともなくクマゼミの声が聞こえてきました。今年初の蝉の声にあっ!となったのですが、その鳴き声に夏を感じるというより、それまで耳に入らなかった鳴き声が沁み入るように届いてきました。

 

先日、勤務先の塀のところに蝉が止まっているのを見つけたのですが、近づいてみても一向に動く気配すらありません。鳴くわけでもなく、ただじーっと止まっているだけ。

 

今朝に鳴いていた蝉も、決して静かなわけではないけど穏やかで、悪く言えば少し弱々しい。賑やかに主張するというよりも、限られた命をしみじみと響かせているような、そんな鳴き声に聞こえました。やはり今年の蝉はなんだか大人しいなと思ってしまったのですが、もちろん一概にそうではありません。

 

次世代へと命をつなぐべく放たれた鳴き声は、同じ条件であっても心持ち次第で騒々しくも情緒的にも聞こえ、若干大人しめに聞こえるのもそんな気分なのかなぁという気もします。それを踏まえて、蝉にとっての短歌のようでもある韻律のある鳴き声は、情熱的な求愛というよりももっと奥底の切なさや物悲しさを訴えているように聞こえます。

 

とはいえ現時点でのことなので、そのうち例年以上に騒々しくなるのかもしれないし、あくまでも私に聞こえてきたという限定した話です。

 

 

話は少し変わるのですが、アブラゼミ派とニイニイゼミ派で論争があった 松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声 」に、私が最初にイメージしたのは実はクマゼミなんです。賑やかしい感じではなくもっと遠くの方でシュワシュワシュワと鳴いているような、それこそ炭酸のようにシュワシュワと岩に鳴き声が沁み込んでいくイメージ。

 

山形の立石寺に参詣する道中で詠まれた句であり、今となっては東北にクマゼミは考えにくいのはわかるのですが、知識もなかったので勝手にそのようなイメージを持っていました。「夏のみそらにひびき沁みけり」の鳴き声がどんな蝉なのかはわかりませんが、「ひびき沁みけり」に似たようなイメージを持ってしまい、そこにいる・いないに関わらずどうしてもクマゼミが浮かんできてしまう私です。