ただ頼めたのむ八幡(やわた)の神風に浜松が枝はたふれざらめや 武田信玄
(ただ(
一心に)頼めというままに神に頼もうとしている。八幡の神風によって、浜松の枝は倒れないことがあるであろうか。(いや、かならず倒れる)

 

NHK大河「どうする家康」では、武田勢による織田・徳川攻めがいよいよといったところですが、掲出歌はその織田・徳川攻めの戦勝を八幡宮に祈願した一首。

 

武田が攻めてくるとなれば、浜松城の家康は当然のことながら臨戦態勢に入ったわけですが、なんと武田は「徳川など枝葉にすぎん、根幹は織田である」と言わんばかりに浜松城をスルー。信玄公が病魔に侵されていたこともあり、武田としてはできるだけ早く決着をつけるべく城攻めに時間を割くより、野戦に持ち込もうという作戦でした。

 

武田軍との戦はできれば避けたいところだけど、かといってスルーされたまま何もしないのは武士として屈辱。何より織田からの援軍は送られてきているわけで、その状況で城に籠り続けたのでは信長の逆鱗に触れかねない・・・。(耳カプどころでは済まされない(;^ω^))  かといって武田と対峙したならそれなりのリスクを負うことになる・・・。

 

さて、どうする家康。

 

 

 

 

我らが神の君の出した答えは、籠城ではなく武田を追うでした。そして三方ヶ原の戦いとなるのですが、勝敗は武田の圧勝。数ある信玄公の名言の中に「人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ」というのがありますが、これは学があるのは立派なことだがそういうことだけでその人なりを見抜こうとするな、きちんと見極めろという教訓。

 

城を出て戦いに挑んだ家康、その性向を見抜いていた信玄の作戦勝ちであり、家康は命からがら浜松城に戻ることとなります。ここで武田が浜松城を攻め落としていたら歴史は大きく変わっていたかもしれません。結果的に、武田は千載一遇のチャンスを逃してしまいました。

 

“尾張・三河の大木”はさらにぐんぐんと根を張り幹を太くし枝葉を拡大し、ついには甲州征伐によって武田を滅ぼすまでになります。信長亡き後は羽柴(豊臣)が根幹のその座につき、天下分け目の関ケ原の戦いで、豊臣を退けた徳川が天下統一を果たすこととなりました。

 

今川・織田の人質だった気弱なあの岡崎の小童が、今川・織田の枝葉に過ぎなかったはずの松平(徳川)が、やがて天下統一を成し遂げるまでの巨木になろうとは・・・。“浜松が枝”の成長ぶりに、さすがの信玄公もあの世で驚いたかもしれませんね。

 

 

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり 武田信玄
人こそが城であり、人こそが石垣であり、人こそが堀である。情けをかければ味方となり、仇とすれば敵となろう。