こういうことを言ったところで、「はっ?何を言っているの?」「どうだっていいよ」と怪訝な顔をされてしまうかもしれません。日本狼はいないから確かめようがない・・・そもそも日本狼アレルギーだろうがなんだろうが、その情報を知ったところでは何がどうなるものでもないから。

 

情報として何ひとつ間違ってはいないけどそれがわかるので、少なくとも私はこういうことはよほど気を許した相手じゃないと口に出せません。だからこそこういう会話をしたときの空気感はその人との関係性に比例し、人間関係において結構重要なポイントのような気がします。

 

そう思うと「日本狼アレルギーかもしれない」は、心のパーソナルスペースを測る一種の踏み絵のようなものかもしれなくて、自分には果たしてそういう会話ができる人がどれほどいるのかと考えてしまいました。

 

 

「私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない」(田中有芽子)という歌。これは、なぜ分からないかというと、日本狼はもう絶滅していないからだよね。もしこの人が、夜お風呂に入りながらこのことを思いついて、次の日会社に行って、会議の休憩時間に「部長、わたし、日本狼アレルギーかもしれないんですけど、もう分かんないんですよねー、いないから」って言ったら、部長は多分暗い顔をして、こいつやばいなって思うと思うんです。だけど、もしこれが「わたし、猫アレルギーなんですよねー、猫好きなのに触れないんですよ」だったら、会社での会話として、全然OKなわけですよね。なぜ日本狼アレルギーはやばくて、猫アレルギーはOKなのか。もちろん、それは「日本狼はもういないからそんなことを言うのは無意味である」ってことなんだけど、実は話は逆で、「みんなが部長のように考えるように社会がなったから、日本狼は絶滅したんだ」っていうのが、短歌や詩の側の言い分です。

野良犬はいなくなった。で、他にもいなくなったのがいて、それは、僕が子供のころなんかは、どこの町にも一人か二人いた「ちょっと変なおじさん」みたいな人。僕らが野球をやっていると、勝手に近寄ってきて「ちょっとバット貸せよ」とか言って、「俺、巨人の二軍にいたんだよ」とか言ってくるおじさん。

「一軍にいた」っていうとばれちゃうから、絶対「二軍」って言うんだよね。で、バットを貸すと、三振して「もう一球」とか言う。嫌なんだけど、まあ一応共存していた。そういうおじさんが、今はもう多分、駆逐されてしまった。今、そんなおじさんが子供たちに「ちょっとバット貸せ」とか言おうものなら大変ですよね。つまり、社会っていうものの輪郭が縮小されて、下手したら野良猫よりも先に、変わったおじさんとかホームレスとか独居老人とかシングルマザーとか、社会的な弱者として生きてる人間がいられなくなる可能性がある。

 

穂村氏のインタビュー記事を読んで、浮かんだのは「ダーウィンの進化論」でした。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。」というあれです。

 

時代の風潮に合わせて変化できなかったマイノリティーが淘汰されていき、掲出歌はそれに対して寛容できない社会に対しての憤りと祈りなのかもしれませんね。