自宅のバルコニーにて。山、笑っています。肉眼で見たほうがはるかに美しいんですけどね。↑の写真じゃ魅力の半分も伝わらない (;^ω^)

 

「山笑う」は、山の草木が芽吹き始めて明るい様子を表す春の季語。この季節の山は本当に綺麗で何時間でも観ていられます。色鮮やかな新緑を見るのが大好きな私。山笑う、とさいしょに喩えた人とは気が合いそうです。(笑)

 

芽吹きの山を「笑っているようだと」と最初に表現することも、「ほほえみ」を見出せる感性の純真さと豊かさがなければできません。掲出歌は、そのような素敵な感性の持ち主は、生涯でどれほどの「ほほえみ」と遭遇するのだろうと思いを馳せています。

 

「出会う」でも「出逢う」でもなく、わざわざ「出遭う」という漢字を用いているのは、「ほほえみ」の部類が必ずしも好ましいものとは限らないからでしょう。世の中には、相手を貶めるための偽りの微笑みというものもあります。

 

感情を持たない山の「ほほえみ」を見出せた人なら、もしかして「ほほえみ」によって傷つけられることも多かったのかもしれません。出会ったこともない「さいしょに喩えた人」に対して、そこまで気を配ることができる繊細さ。その思慮深さもまた素敵な感性だと思います。

 

 

 

春の「山笑う」の他にも、夏は「山滴る」、秋は「山装う」、冬ならば「山眠る」

 

調べてみると、これは中国・北宋の山水画家である郭熙 (郭河陽) の「山水訓」にある

「春山淡冶にして笑ふがごとく、夏山は蒼翠にして滴るが如し。秋山は明浄にして粧ふが如く、冬山は惨淡として眠るが如し」

からきているようです。

 

・・・ということはですよ。「山笑う、とさいしょに喩えた人」というのは、郭熙 (郭河陽) ということになりますね。郭熙の早春図を見れば、ああ・・・なるほどと感じます。

 

ウィキペディアより
ウィキペディアより