黛まどかさんといえば、日本でも著名な俳人のひとり。近年ではTBSの「プレバト」などの影響もあり、俳句に興味を持たれる方も増えてきていますよね。文化庁の文化交流使としてパリを拠点に活動されていたこともある黛さんが、俳句を通して感じた日本文化論、その真髄である「引き算の美学」について書かれているのが本書です。

 

黛さんは冒頭でこう述べられています。経済至上主義、効率主義一辺倒ら突き進んだ「足し算」がもたらしたものを整理する必要があり、日本文化の真髄である引き算、省略、その果てに生まれる余白の力を見直す時が来ていると。

 

俳句といえば、言わずもなが季語を含めた575のたった17音だけで構成されており、そこに求められるのは足すよりもむしろ省くこと。となれば、「引き算」そのものといっても過言ではないのかもしれません。

 

俳句の国際化

近年では「禅ブーム」に伴って、世界的にも“ハイカイ”“ハイク”はモード(流行)となっているようです。そんなブームであっても、国際化という観点からするとその難しさを実感されられることが多かったようです。言語も自然観も違う海外の人に、本当の意味で“真髄”を理解してもらうのはなかなか大変なのだとか。その辺りの苦労話や、フランスらおける俳句の歴史についても詳しく綴られています。

 

規律を嫌う傾向にある海外において、“型”を理解してもらうのに新体操の床運動を例をあげて説明されたという話はなるほどと思いました。

俳句も同様で、型つまり床運動における枠があるからこそ、その枠の中で言葉が跳躍し、飛翔する。言葉がぴたりと型にはまった時は、床運動におけるバック転の最後の一足がコーナーぎりぎりに着地した時と同じ効用をもたらすのである。

 

高校の時、ニュージーランドにホームステイしたことがあるのですが、日本文化を紹介するために自分なりに資料をまとめたりしたのですがどうやって伝えたらいいのかと頭を悩ませたのを思い出しました。華道や茶道に「型」がなければ、フラワー・アレンジメントやティー・パーティーと同様になってしまうとあるのですが、肝心の日本文化特有の型とか余白とかそういったものは、なかなか上手く説明できませんでした。

 

精神は型に宿る

あるフランスのハイキストがこのように言った。「型は守っていないが、俳句の精神は尊重しています」。しかし私は俳句の精神は型に宿るものだと思う。限られた音節と季語の存在は、私たちを俳的思考へと導く。只管打坐の果てに悟りの境地に近づくように。

~中略~

禅の修行僧が朝起きてからの掃除、洗顔、食事のことなどのすべてに型があり、無条件にそれらを実行することがすなわち修行を積むことになるようなものではないだろうか。最初から頭の中で悟りとは何かなどと考えたところで、悟りの境地などに到達できるはずがないと思う。

 

ベルギーのゲントでも、自分たちの俳句に「型」はいらないという意見が出た。私はこのように答えた。「あまたある詩形の中でみなさんはともかく“俳句”を選んだのです。俳句を選んだということはその時点で“型”を選んだということなのですよ」

引用元: 引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

 

ほんの短い期間ですが、師範の免許を待つ友人から華道を習ったことがあります。流派によって多少異なるのでしょうが、花の向きや位置、本数、角度などあらゆることがきちんと決められており、そのすべてに“型”が存在していました。何回かやってみると、素直に“型”どおりに生けられたものが、空間のバランスなどやはり一番美しいのです。

 

俳句や短歌も同じで、膨大な語彙や言い回しの中から型にぴったりと嵌る言葉を選び出せたなら、結果的にそれが一番美しい調べになると信じている部分が私の中にはあります。

 

型とは

さらに型に関していえば、能楽師の安田登氏と笛方の槻宅聡氏と対談した話が出てきます。これがとても興味深いものでした。

笛は多くの笛方によって吹かれているうちに、道具の継承だけではなく、音の継承、もっといえば笛の魂の継承をしているということではないだろうか。人が笛を吹くのではなく、笛に吹かされている。笛の求める型に音が適ったとき、良い音が出る。多くの人を介して長い年月を吹き続けられるうちに、それぞれが笛方の魂が宿り、さらにそれは笛そのものの魂となって音を出す。笛の声といっていい。型を通して、笛方と笛の間に揺るぎない信頼があればこそ生まれるのだろう。

 

日本の詩歌の七五調 (五七調)も、笛に譬えることができるのではないだろうか。千年二千年と読み継がれる中で先人たちの魂が宿り、七五調という笛そのものにすでに日本人の太古からの魂の声魂の調べのごときものが宿っており、いにしえ人の魂と相呼応しながら、私たちは今日を詠んでいるのだ。

引用元: 引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

「心」は「心変わり」という言葉があるように変化するものたが、「思い」はそのもっと深くにあって変化しない。例えば、好きになる対象が変わっても、「好きになる」という部分は変わらない。「心」を生み出す元の部分、これが「思い」だと氏は言う。

 

「もし能が『心』を扱っていたら、六百五十年も続かなかったはずです。・・・だが、どんなに『心』が変わっても、人の『思い』の部分というのは、そんなに変わらない。その『思い』を表現するのが能なのです。しかし、演じる僕達は『心』を持っている人間ですから。この『思い』を表現することは難しい」

 

人生には「思い」に到達できる瞬間が何度かある。例えば、大切な人をなくしたときなど、人はその「思い」に到達する。それをある時、先人たちが「型」というものの中に押し込めたというのだ。

 

「私たちが『型』を学んで舞台の上で演じるということは、冷凍保存されたものを解凍していく作業なのです。その『思い』が解凍されて『観客の中にある思い』とリンクして、演者も観客も普段気づいてはいなかったある『思い』が芽生えてくる。『型』というのは、ただ『形』というのではなく、そういう普段は気づかないような思いに根ざした深いものだと思うのです」

引用元: 引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

私自身、一番伝えたい肝心な部分は余白として残しておく中で、そういった普遍的な「思い」を全面的に押し出して詠むことが圧倒的に多いです。「定型」にこだわるのも、まさにそういうことだったりします。それぞれ連想するシチュエーションは違っても、型に押し込めた「思い」を共有できればそれが理想。そう思っています。

 

型についてもう少し掘り下げてみると、松尾芭蕉の話が出てきます。「おくのほそ道」で有名な松尾芭蕉ですが、これは能や謡曲の舞台を巡る旅でもあり、黒染めの僧衣で旅立っているのは能のワキ僧に見立てる意味があったのだとか。

 

引用元:wikipediaより

 

複式夢幻能では、シテである主人公は、幽霊とか草木の精とか、この世ならざるものたという。ワキの多くは僧形の旅人で、旅の途中で歌を読むとシテである霊が現れ、本性を出して自分自身について語りだし、舞を舞って消えていくというのが基本パターンである。安田氏はまず重要なのはワキが旅をすることだという。そして次に重要なのは歌を詠むこと。歌を詠むことで、違う世界が出現するのだ。つまり七五調(五七調)が重要であって、散文調の言葉では亡霊は応えてくれないのだ。歌をささげることによって場や精霊に挨拶をし、存問する。すると異界への扉が開き、通じ合うことができる。詩歌によって融通無碍な存在になり、時空を超えていにしえ人と心を交わすことができるのだ。

引用元: 引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

 

能の演目に「芭蕉」というのがありますが、これはシテとして芭蕉の精が出てくる話。これは何となく知っていたのですが、その芭蕉が自身をワキ僧に見立てていたとは初めて知りました。こうやって紐解いていくと、改めて“型”の持つ意味と重要性を認識させられます。安田氏が、芭蕉について詳しく解説されているサイトがあったのでリンクしておきますね。

 

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他にもいろいろと書かれてあるのですが、特に印象に残った“型”についての部分を中心に書き記してきました。短歌も俳句も五七調で通ずるものがあり、興味深い話ばかりであっという間に読み終わりました。

 

 


舌先に滴る甘き初西瓜 (朝倉冴希)

 

おそらく人生初めて詠んだ俳句。この気象で作物の出来があまり良くない中、トマトと西瓜だけは立派に育って味も上々でした。(笑)