白玉の憂いをつつむ恋人がただうやうやし物もいはなく 伊藤佐千夫

 

伊藤佐千夫作品の代表作といえば「野菊の墓」であり、山口百恵さんや松田聖子さんなどによって何度か映画化もされています。

 

矢切村にある旧家の息子の斎藤政夫と、二歳年上の従姉である民子との恋愛物語。世間体を気にする周囲によって引き裂かれようとする2人が、綿花を採りに山畑に向かうのですが、そこで政夫が民子のことを「野菊のような人だ」といいう有名なシーンがあります。その後、水を汲みに行った2人はリンドウを見つけ、民子は政夫のことを「リンドウのような人だ」というのです。

 

仕事を終えた二人は、木の切り株に腰かけながら「なんというええ景色。こんなときに歌とか俳句とかやったら面白いものがいえるでしょうね。歌をおやんなさいよ」「少しやっているけど難しくて容易にできないのさ」みたいなたわいのない会話をしつつ、やがてしばらく無言でぼんやりと時間を過ごすことになります。

 

2人の行く末について話したいと思いつつも、かえって何も言えずに黙ってしまう2人。「野菊の墓」は自身を投影した作品とも言われていますが、切り株に腰かける政夫と民子のシーンにもぴったりとはまる一首だと思っていて、その後の展開が切ないだけに2人きりの貴重な時間のような儚さを感じます。

 

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牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる 伊藤佐千夫

「牛飼」というは伊藤佐千夫本人のことであり、彼は東京墨田区で牛飼いをしていました。東京でベコを飼うというと物珍しさがありますが、明治時代の東京は酪農がわりとさかんだったようです。学歴や業種、生まれ育った境遇なんかを一切問わないからこそ、短歌は奥深くて面白いと思うのです。