旭川出身で養護教諭をされている歌人・柳澤美晴さんの短歌。

 

柳澤さんは、2006年に「モノローグ」という作品で未来賞を受賞、同年には作品「WATERFALL」で49回短歌研究新人賞次席入選。 2008年には「硝子のモビール」という作品で、第19回歌壇賞を受賞されています。

 

上記の短歌は、第一歌集「一匙の海」に収録されている一首。「一匙の海」は、第12回現代短歌新人賞、26回北海道新聞短歌賞、第56回現代歌人協会賞を受賞するなど高い評価を受けおり、短歌への覚悟や先人へのオマージュ、相聞、家族に対する想い、養護教員として働く職場でのことなどが詠まれている一冊です。

 

***

 

定型は無人島・・・サバイバル的なこの感覚すごくわかります。個人的には陸よりも海なんだけど。定型という枠に嵌まる言葉のピースを掲げて「獲ったどーっ!!!」っていうイメージ。「生き残りたくぱみずから海を拓け」・・・言葉の海を開拓して語彙を広げていくしかないのかなと、そんな風に思っています。

 

 

文語か口語か、仮名遣いをどうするか、定型を崩すか崩さないか、どういった技法を用いるのか。そして、どれだけ傷と向き合い、どこまで晒すのか・・・。柳澤さんの答えはこうです。

 

詩歌の黄昏に立ち会っていると意識したのはいつだったろう。散文が韻律を侵食し、韜晦が叙情を蝕み(切岸に立たされていたのだ、気づかぬ内に)。鳥が撃ち落とされるのを、黙って見ている人がいた。鳥が焼き殺されるのを見て、立ち去る人がいた。鳥が料理されるのを見て、喜び勇んで皿を差しだす人がいた。私は、鳥の羽根を拾って、ペンに仕立てて文字を綴った。鳥の輪郭が失せても、鳥の飛翔法はのこる(修辞で風を切る快感は)。

そんな飛び方は時代遅れだと、だれか言う。時代がそれを求めていないのだと、もっともらしく言う。だが、そう言う声も、鳥の飛翔のうつくしさを否定することはできないのではないか。言葉と真剣に切り結び、定型内部に風圧を生むことで舞い上がる鳥。私は、うつくしい航法を守りたい。空から見る空の色を知るために、表現の水際に立ち、定型に抗いならが、傷を晒しながら、しかし、毅然と前を向いて私だけの律動を刻みつけたいと思う。

 

 

何気なく発する言葉のはしばしにセンスを感じる人がいます。このちっぽけな脳内では到底考えつかないような言い回しで、心が軽くなるようなことをさらっと言ってのけたり。そんな言葉に出会うと強烈にその人が羨ましくなるし、自分もそうなりたいと強く憧れます。

 

「定型は無人島」・・・柳澤さんもそんなセンスのある言葉を持つ1人。

 

言葉の海をさんざんダイブして、やっと完成させた自分の短歌を前にしてたまに思うんです。これって自分にしか詠めない短歌なのかなって。変化する“心”というよりもっと深層にある普遍的で誰もが共有する“想い”を届けたいと思ってやっているけど、普遍的で誰もが共有するからこそ平凡になりがちだったりもします。

 

どう足掻いても自分の脳内をこねくり回して絞り出すしかないんで、それがないのならみずから拓いていくしかないという・・・結局はそこになりますね。