もしこれが君だったらとよぎりつつ骨までかぶりつく姿焼き 朝倉冴希

 

以前、豊田市上中町にある「しだれ桃の里」に行ったとき、うずらの姿焼きを食べたときのこ経験をインスピレーションに詠んだ一首です。

 

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がっつりと骨がついたまま丸ごと焼かれていたんですけど、食べる前は手羽先を食べるみたいな感覚でそこまで骨があるとは思っていなかったんです。ところがいざ食べてみると、バリバリという骨を砕く音ととともに、鳥ってこんなに骨があるんだって正直ビックリしたんですよね。

 

経験したらよりわかってもらえると思うんですけど、バリバリと骨が砕ける感じが動物を食べているというリアルをより感じさせて、正直うわ~ってちょっとした不気味さを感じました。骨さえなければと思いながらも・・・いや、本来はそういうものなんだなって思ったりもして。

 

 

話は変わって・・・。

 

施設の厨房を転々としていたとき、どの施設にいっても異物混入に関しては厳しく言われました。私が働いていたのは病院や介護施設だったので、仮に骨なしのチキンに骨があったとしたら、間違いなく異物が入っているとみなされます。

 

ヘタしたら利用者さんや患者さんの身を危険にさらしてしまう可能性がため、骨なしと売っていた業者側の落ち度であって、こちらには責任がないなどという言い訳は通用しません。もちろん鶏肉には骨があって当たり前という理屈も通用しません。これは魚でも同じ。そんな厨房で働いていた当時のことも脳裏に蘇ってきました。

 

骨があって当たり前の本来の自然の姿が、人間の都合によって骨なしへと変えられていき、あって当たり前だったはずの骨がそこにあればそれは異物であり“混入事象”となる・・・考えてみればおかしなことなのかもしれません。

 

でもねー。特に魚なんかは、小骨をいちいち取り除いてなんてとてもやっていられないし、「骨なし」はなくてはならないありがたい存在です。骨なしの魚が使えなかったら・・・と思うとゾッとします。

 

便宜上そうせざるを得ない、そのほうが都合がいいから・・・。「骨なし〇〇」に限らず、そうやって自然の摂理を人間の都合のいいように捻じ曲げてきた事象が、現代の社会システムにはたくさんあるなと改めて思います。

 

掲出歌は、そういうことになんの違和感も疑問も持たなくなるのは危険だと警鐘を鳴らしているような気がするのです。利便性とどう折り合いをつけていくのかは未来への大きな課題ですね。